治療者と患者が一緒になって悩む、という現象があります。
どういう水準でそれが行われているのか、それは具体的なケースや場面ごとによって違うのでしょうが、治療者が患者に寄り添うといっても、同じ目線で悩み始めると、それは困ったものだなと思います。
治療者は冷静で、どこか俯瞰したものが必要です。
さて、俯瞰できることは、知識や能力、経験に拠るのでしょうか。
また、知識や能力や経験は、権威と結びつくのでしょうが、権威を保たねば、その知識や能力、経験を示すことはできないのでしょうか。
よく聞かれることをこのブログで取り上げているのですが、僕は普段どんなことを考えているのですか?なんてよく聞かれます。
僕自身も精神科医は普段、どんなことを考えているのだろうと思っていました。
今回のタイトルも、そうしたお題の中のものです。
こうして今、毎日外来をするようになり、こんな風に毎日ものを考える時間が増えました。それは対立する概念についてであったり、ねじれの位置にある概念であったり、出会うことのない人たちについてであったり、出会ってしまった不幸であったり。
どうして考えているのかというと、教えの中から答えを見出すのではなく、体験や臨床場面から答えを探す作業もしていきたいと思うようになったからです。
それがある程度一周したら、またテキストや教えの中に潜っていくのでしょうが。
まぁ、カウンセリングはいいものですよ。