自分が愛されていないということに気づいたとき、足元の地盤が崩れるような感覚を覚え、孤独を感じます。
「いいや、そんなことはない」と思い直すための判断材料を、いくつも探しますが、一度、生まれた疑念ないし確信は変わりません。
靄のような幻想に包まれることを希望しますが、それでは先に進めず、また苦しいです。
自分の中にある、攻撃性に気づいたとき、つまり、自分が誰かを憎んでいるとか、もはや愛していないということに気づいたとき、そういうときも「いいや、そんなことはない」と思い直すための判断材料を探し、なんとか否定したい気持ちになります。
もしくは、相手は憎まれるべき人間なのだから、仕方がないのだという風に決めつけたくもなります。
しかし、憎むべき程の人間ではないのに、自分が相手を憎んでいることを知った時、その暴力性に驚かされ、また同時に相手の暴力性にも確信を持ちます。「きっと彼もこんな風に憎んだんだ」と
そういう時にはカウンセリングの場に訪れてください。
その孤独を癒す、手助けをさせてください。
逆があります。
自分が愛されていることに気づいたとき、そして自分が誰かを愛していることに気づいたとき、やはり自分の中には人を愛する心を持ち、相手も同じように愛する心を持っていることを知ります。
気づきは恐ろしく、今まで見えていたものを全く別なものに見せます。気づきは窮地にさらされた時こそ、起こりやすく、そして避けがたいものです。
なので、対立する概念を飲み込み、一つ上の水準でものを見る訓練を、やり続けなくてはならないのかもしれません。
「愛されていない」の裏には、常に「愛されている」があるわけで。
通院やカウンセリングは、愛されていることに気づける空間であるべきだと思っています。
憎しみも悲しみも、カウンセラーという鏡を介せば、愛されているに気づけるはずです。
それはカウンセリングが幻想を生むからではなく、もともと裏表のものなので、それを少しひっくり返してやるだけで、また違って見えるので。
世界は広いですし、残酷な事実もあれば、素晴らしい事実もあります。
どういう水準であるにしろ、愛してくれる人が必ずいます。
本当に、そういう事実に気づける場として、カウンセリングがあればいいと思います。