相手を理解する前に、相手を知ろうとする行為が必要です。
しかし、知ろうとする行為は侵襲的なものでもあります。質問された相手は、自分の恥部をさらされた気になるかもしれないですし、自分がそれについて何も知らないことを気づかされるかもしれません。それは時として痛みを伴います。
しかし、相手から知ろうとする力、ある種の刺激を感じなければ、人は本当に理解されたと思えないのも事実です。
しかし、理解したふりをしてくれるのも、心地よいものです。
理解したふりをしている相手に対し、自分はどこか優越感をもって、対応することができます。「あなたは私を知らないが、私はあなたを知っている」という、生ぬるい優越感です。
その生ぬるさは不要なものなのでしょうか?
理解したふりをしてくれるというものを、もう少し愛情あるものととらえることもできます。
理解したふりというのは、「自分もこんな苦しいことがあったんだ」と相手に自己を投影したことでもあります。
自分の苦しい過去の吐露でもあり、それは恥部をさらしながら、相手に伝える行為、相手が理解を得る行為でもあるわけです。