新型コロナウィルスがなぜ人を不安にさせるのか、思いつくままに述べてみます。
経済的な問題について、ここではあまり言及しません。それこそが、不安の種だよとおしかりを受けそうですが…。
(基本的には個人、家族、コミュニティ、地域社会、日本、世界…と集団規模のサイズが小さい順に問題点を述べるようにしましたが、漏れなく語れるように意識したわけではなく、重複や抜けもあります)
#命の不安
#自らが被害者になり、加害者になる不安
#未知なるものへの不安、学ぶ意義、学ばないものへの怒り
#変化があること、意義が問われていること、対応しなくてはならないこと
#技術や変化の前に自由意思はあるのか? 短期目標や長期目標、挫折
#ポジションの違い、対立。勝ち組と負け組
#日本とは? 世界とは?
#解決策として、そもそもぶれない心とは何か
#命の不安
新型コロナウィルスの感染により、自分も死んでしまうのではないか、と不安になる。
特に、普段から死についてあまり考えてこなかった人にとって、自分が死んでしまうという可能性を考えることは、とてつもない恐怖なのだろう。
死はそれ自体、恐怖や不安の対象だ。
一方で、本当に死それ自体が「そこまで」怖いものなのか、ということについては議論の余地がある。自らの死が怖いのではなく、愛する人を残していくことや、彼らに迷惑をかけることが辛いのだ、と答える人も多くいる。
さて、診察室ではコロナによる死の恐怖を語る患者さんというのは、僕のクリニックでは、めったにいない。これまで2~3人ぐらいしか診察していないのではないか。どちらかというと、自らの死はあまり問題になっていないような気がする。
死の恐怖というよりも、自分が死んで迷惑をかけてしまうことへの不安の方が多く語られている。命そのものより、2次的な産物について語られている。
自分以外の別の人間が死ぬことへの不安もある。こちらについては、命そのものが語られている(しかし自らの命ではないので、広い意味では二次的である)。
若い人であれば、感染による死亡率は決して高いものではない。しかし、高齢者は別だ。高齢の親を持つ人にとって、新型ウィルスが持つ感染力と致死率は、強い不安の材料である。
親が感染すれば、死んでしまうかもしれず、それが不安だ。
クリニックでは、この手の不安を語られることがほとんどで、親や祖父母が施設に入っていたりすると「もう自分は二度と会えないかもしれない」と不安に感じ、悲しむ人も多い。
#自らが被害者になり、また加害者になる可能性
命の不安とは自らが被害者になることに関する事柄だが、コロナウィルスに感染すると誰かを感染させてしまうという別の側面(加害者としての側面)もある。
自らが加害者になってしまうかもしれない、という不安も語られる。
もし感染してしまえば、たとえ自分は無症状であっても、愛する家族や友人、周りの人や見知らぬ他者を感染させる可能性があり、命の危険にさらしてしまう可能性がある。
自らが加害者になってしまうことに、人は不安を感じる。他人から「それは仕方がないことだ」と慰められても、あの時自分が自粛をしていれば、という後悔の念に悩まされる。
感染のリスクについて考え、自らを律するが、やはり毎日続く自粛生活もまた苦しいので(心身的に、経済的に、価値観的に…)、その葛藤に悩んでいる人も多い。
そもそも完全に自分の行動をコントロールすることは不可能なことではあるのだが、そういう事実を忘れ、人は自分の意志の力を過大評価するものなので、葛藤や後悔で苦しんでしまう。
経済的な観点や、価値観の観点からも、自粛生活は望ましくないと考える人もいる。リスクを把握し、科学的に正しい方法で予防して生活するのがベストである、というのだ。
しかし様々な対策を論じても、結局はだれにとっても正しい正解が出ないことには変わりなく、何かを選択すれば何かを傷つけることにもなるので、その決断をすることの重荷に人は不安やストレスを感じている。
いくら聞こえのいい言説で納得させられても、人は被害者や加害者になりたくないものだ。
#未知なるものへの不安、学ぶ意義、学ばないものへの怒り
新型コロナウィルスについて科学的にきちんと学び、経済システムや社会システムについて深く考えていけば、より良い選択をとることができるかもしれない。
学ぶことで未知なるものへの不安が減り、リスクを考慮したうえで最善策をとることができれば、加害者になる可能性が減る(なったとしても言い訳ができる、後悔や罪悪感が減る)。
自分はここまでやったんだ。だから仕方がないだろう、と言えるかもしれない。
しかし、人は自分で納得ができるほど学び続けていくことはできない。能力的な問題や、時間などの物理的な問題、モチベーション的な問題と、制約は様々な形である。
そのうえ学び、議論をし続けても、また新たな疑問がわくので、真の最善策を見つけることはできない。
必然的に、暫定的な最善策をとらざるを得ないのだが、命にかかわることなので決断の責務に耐えられない。
行政機関など「決断するもの」へ怒りが向くのは、自らに向かうはずの後悔や怒りを投影しているからともいえるし、単純に実際に相手が自分よりも学んでいこうという姿勢が乏しいからかもしれない。
自らの怒りなのか、もしくは責任ある立場の者の失策なのか、その迷いや見極めの中、ストレスは溜まっていくのかもしれない。
#変化があること、意義が問われていること、対応しなくてはならないこと
人々は学び、最善策をとろうとするので、必然的に社会は普段以上の変化が起きることになる。小さな変化が積み重なることで、誰も想像できない大きな変化の渦になる。
変化の渦に対応して、また人は学び、変化していかねばならない。そしてまた、その変化はまた次の変化を生むので、また対応する…ということが繰り返される。
渦はますます大きくなり、この渦は数年続くだろう。結果、数年後の未来は現在の社会とは、幾分、異なるものになっている可能性が高い。
変化に対応するために、我々はあらゆる物事を考察しなおさなくてはならない。
それは不要不急のものなのか? オンラインで対応できないものなのか?
その意義が問われることになる。
物事の本質を問い、その中で、本質は変えずに姿を変えるという難行をうまなくこなさなくてはならない。それが、変化に対応するということであり、我々は対応することが求められている。
この面倒な思考過程や、かなりの労力を要して対応しなくてはならず、心身共にかなりのストレスがかかる。
何気なくやり過ごすことができないので、ストレスは大きい。
これらの労力を考えると、始める前からうんざりするし、また「自分にできるのだろうか」と不安になる。
#技術進歩や社会変化を前に自由意思はあるのか? 短期目標や長期目標、挫折
僕らはこのうんざりするような労力を要する、変化を拒むことはできるのか?
それはほとんど不可能なことのように思える。
変化を拒めば、ただ損をするだけである。
このような変化のせいで、短期目標や長期目標は立てにくくなった。
夢をかなえることが難しくなった人も多いだろう。例えば、人前でパフォーマンスをして、ライブで稼ぐことを夢見ていた人。大学生活を友人らと楽しもうとしていた人(オンライン授業が中心でサークルに入った人はいる?)
既存の産業構造の中で出世を考えたり、利益を出すことを考えていた人…
しかし、変化のない時代というのもあったのだろうか?(戦争になるよりはマシ?)
挫折と感じた人もいただろう
挫折に関連し、当然のことだが、不景気も不安やストレスを生んでいる。悪いニュース…。
コロナは人々の動きを停滞させているので、当然、景気も悪くなっている
会社の業績が悪化し、収入が減るというのも不安だ
#ポジションの違い、対立。
このような状況でも、経済的な恩恵を受けているところはある。すべての組織が損をしているわけではない。
ポジションによって、支持する内容は異なるだろう。
勝ち組と負け組がはっきりと分かれてくる
勝ち組と負け組が別れること自体は今回のコロナに限ったことではない。勝ち組と負け組はこれまでもあった。ただ、住み分けができていたので、自分が負け組であることを意識する機会が少なかった。
これから、その入れ替わりが一部行われる。それを目の前でみていると「どうして自分は勝ち組の方に入れていないのか?」と不運を自責的にとらえるか、他責的にとらえるか、いずれにせよストレスとして受け取られる。
その入れ替わりの当事者、そしてそれを周囲で眺める人にとって、とてもストレスであり、不安を与えるものだろう。
とはいいつつ、経済学者が予想しているのは格差の拡大、中流階級の没落である。
ほとんどの人は今回の件で経済的に負け組にまわらねばならず、勝ち組に回れるのは資本家と一部のIT系企業である。
#日本とは? 世界とは?
日本は勝ち組になるのか、それとも負け組に入るのか?
東アジアの住人たちはFactorXという、原因はよく分からないが、疫学的には死亡率がはるかに低い。これは幸運である。
一方で日本は少子高齢化社会であり、IT化も遅れている。産業構造が変わる今、それらの要素は負け組側に入るものだろう。行政自体も膠着化しており、中国のようにスピーディーな対応ができない。
これからはデータの時代と言われており、国の主権が強い方が、民衆的であるよりも向いているように思う。その点においても、日本は不運である。
#解決策として、そもそもぶれない心とは何か
これまで、様々な点でコロナにまつわることを考えてきた。
ぼく個人としてとてもストレスフルなことは、今まで何気なくやってきたこと、信じてきたことをもう一度その意義を問い直さなくてはならないことである。
その作業は手間である。脳はかなりのカロリーを消費するだろう。
思考をとめると、一方に傾いてしまい、傾き過ぎると心の平安は乱される
あーでもない、こーでもないと考え続け、揺れつつもやじろべえのように中心を保持することこそ、心の理想形だ
材料はたくさんあるので、様々な点から考え続けることが重要だ
一度決めたら、変えない、というのは、間違いである。
正確に言うならば、微妙に調整し続けなくてはいけない。綱渡りのように、まっすぐ歩いているようで、重心を少しずつ調整しながら、歩いている。
思考も心も同じである
少しずつ調整しながら、歩いていく
初心者の重心はずれが大きいし、ベテランであれば重心のずれは少ない
どちらも、やっていることは同じで、細かい調整である