早稲田メンタルクリニック院長

早稲田メンタルクリニック院長のブログです。https://wasedamental.com

愛されていないという気づき

 自分が愛されていないということに気づいたとき、足元の地盤が崩れるような感覚を覚え、孤独を感じます。

「いいや、そんなことはない」と思い直すための判断材料を、いくつも探しますが、一度、生まれた疑念ないし確信は変わりません。

 靄のような幻想に包まれることを希望しますが、それでは先に進めず、また苦しいです。

 

 自分の中にある、攻撃性に気づいたとき、つまり、自分が誰かを憎んでいるとか、もはや愛していないということに気づいたとき、そういうときも「いいや、そんなことはない」と思い直すための判断材料を探し、なんとか否定したい気持ちになります。

 もしくは、相手は憎まれるべき人間なのだから、仕方がないのだという風に決めつけたくもなります。

 しかし、憎むべき程の人間ではないのに、自分が相手を憎んでいることを知った時、その暴力性に驚かされ、また同時に相手の暴力性にも確信を持ちます。「きっと彼もこんな風に憎んだんだ」と

 

 そういう時にはカウンセリングの場に訪れてください。

 その孤独を癒す、手助けをさせてください。 

 

 逆があります。

 自分が愛されていることに気づいたとき、そして自分が誰かを愛していることに気づいたとき、やはり自分の中には人を愛する心を持ち、相手も同じように愛する心を持っていることを知ります。

 

 気づきは恐ろしく、今まで見えていたものを全く別なものに見せます。気づきは窮地にさらされた時こそ、起こりやすく、そして避けがたいものです。

 

 なので、対立する概念を飲み込み、一つ上の水準でものを見る訓練を、やり続けなくてはならないのかもしれません。

 

「愛されていない」の裏には、常に「愛されている」があるわけで。

 

 通院やカウンセリングは、愛されていることに気づける空間であるべきだと思っています。

  憎しみも悲しみも、カウンセラーという鏡を介せば、愛されているに気づけるはずです。

 それはカウンセリングが幻想を生むからではなく、もともと裏表のものなので、それを少しひっくり返してやるだけで、また違って見えるので。

 

 

 世界は広いですし、残酷な事実もあれば、素晴らしい事実もあります。

 どういう水準であるにしろ、愛してくれる人が必ずいます。

 本当に、そういう事実に気づける場として、カウンセリングがあればいいと思います。